2023年9月14日(木)

 現時点におけるわたしの処理能力を超えた仕事量の日が続いている。そういうときは帰宅後に散文を読もうとしてもあっさりと眠ってしまう。詩を読みたいな、それに短歌も。シルヴィア・プラスをひととおり読んだら、あらためてエミリー・ディキンソンに戻ってみよう。

 しかし、由熙はやはり遠かったのだ。

 私と何を話し、私に何をぶつけても、自分が吐いた言葉と表情の苦い余韻を、由熙はだからこそ韓国語をもっと自分のものにし、もっとこの国に近づこうとすることで乗り越えようとしたのではなく、それとは反対に、日本語の方に戻ろうとしていた。日本語を書くことで自分を晒し、自分を安心させ、慰めもし、そして何よりも、自分の思いや昂ぶりを日本語で考えようとしていたのだった。

(李良枝「由熙」『由熙 ナビ・タリョン』講談社文芸文庫 1997.9)

 pp.359-360の文章も引用したかったのだけど、ハングルが使われていてうまくできなかったので諦めた。あいまいな記憶になるが、李良枝は多和田葉子も言及していたような気がするので今後もすこしずつ読んでいくことになりそうだ。