2024年6月14日(金)

江國香織『物語のなかとそと』朝日文庫 2021.3

 子供のころ、私は夢をもっていませんでしたし、打ち込めるものも好奇心もありませんでした。友達も、そうたくさんはいませんでした。では毎日何をしていたのかというと、ただ見ていた。他人を、世界を、自分とはつながりのないものとして、ただ見ていました。何しろ食器棚の奥の食器ですから、他にできることがなかったのです。

 自分と自分以外のものがつながったとき、世界はいきなりひらけます。これは本当です。それまでは、だからじっとしていてもいいの。ただし目はちゃんとあけて、耳を澄ませて、体の感覚を鈍らせないように。雨がふったら誰より先に気づくように。猫の毛と犬の毛の手ざわりの差を知るように。岩塩と天日塩の味のちがいを歴然と知るように。(pp.45-46)

 

ゆうべ遅くに犬が吐いたので、午後、念のために獣医さんに連れていく。信じられないほどエネルギーに満ちた、神様に祝福されているとしか思えない犬だったのに、彼は最近元気がない。(p.49)

 

 解説で町屋良平が「身も心も疲れはて魂までもが危うい、という状況になったとしても読める好きな作家がいれば人生はすこし生きやすい」と書き、そういった「サバイバル感覚」を持って読む作家のひとりとして江國香織を挙げていた。まさしく、と思う。魂の平衡感覚が崩れたとき、しぜんと手を伸ばすのは江國香織の本だった。

2024年6月9日(日)

サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹 新潮文庫 H26.3(再読)

「彼らは詩人なんかじゃない」とフラニーは言った。「それがめげちゃうことのひとつなのよ。私が言いたいのは、本物の詩人じゃないってこと。彼らは詩を書いているし、あちこちに掲載されたり、アンソロジーに収められたりしている。でも彼らは詩人とは違う」(pp.34-35)

 

「私にわかってるのは、ただこれだけ」とフラニーは言った。「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。彼らよりいくらかましな人たちなら、あなたの頭の中に入り込んで、そこに何かを残していくかもしれない。でも彼らがそうするからといって、何かの残し方を心得ているからといって、だからそれが詩であるとは限らない。それはただの、見事によくできた文法的垂れ流しかもしれない。表現がひどくてごめんなさい。でもマンリアスもエスポジートも、気の毒だけどみんなその類いよ」(p.37)

 

 一人になり、フラニーは天井を見ながら身動きひとつせず横になっていた。彼女の唇は動き始め、声にならない言葉を形づくっていった。唇はそのまま休むことなく動き続けた。(p.70)

 

少女から十五フィートばかり離れたところに、まだ小さなダックスフントが一匹いる。それは彼女の犬で、緑色の革の首輪と紐をつけている。犬はくんくんと匂いをかぎながら、少女を探し求めている。紐をあとに引きずり、小走りに必死に輪を描いている。少女と離ればなれになった不安は、犬にはまさに耐え難いものだ。ようやく犬は女主人の匂いを嗅ぎつけ、そのときには不安はほとんど限界に達している。再会の喜びは双方にとってまさに圧倒的だ。ダックスフントは小さく喜びの声をあげ、前屈みに縮こまり、感に堪えかねるように震えている。(略)「まったくなあ」とズーイは言った。「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ」。(pp.218-219)

 

アーティストが関心を払わなくちゃならないのは、ただある種の完璧を目指すことだ。そしてそれは他の誰でもない、自分自身にとっての完璧さなんだ。他人がどうこうなんて、そんなことを考える権限は君にはないんだ。本当にその通りなんだぜ。そんなことにいちいち頭を使うべきじゃない。僕の言いたいことはわかるかな?(p.287)

2024年6月8日(土)

川野芽生『幻象録』泥文庫 2024.5

 「言葉」についてもそう。わたしは言葉を愛していて、言葉よりほかのものを持たないのだけれど、言葉は決して罪のないものではなく、そこにはこの社会の権力構造が内包されていて、言葉を使うたびにわたしは裏切られるよりないのだった。言葉は、結局「男性」のものなのだろうか?(p.193)

 

 この評論から明らかになるのは、短歌において何が現実とされ、何が虚構とされるかには、政治的な力が働いている、ということである。作者と作中主体は切り離すべきであるという論は広く受け入れられているけれど、その適用のされ方は実は歌のモチーフによって差異があり、社会において「一般的」とされる範囲を逸脱しない人物像を作中主体が持っている場合は、わざわざ「作者とは別」と言われないことが多いのに対し、マジョリティ的でない、主流秩序を侵犯する人物像は、「虚構」の領域に追いやられて解毒されてしまう。

 無論、「虚構」という隠れ蓑があるからこそ、カミングアウトしていないマイノリティがマイノリティ性を帯びた作品をクローゼットの中から送り届けることもできるのであり、作者の属性については口を噤まなければならないことも往々にしてあるのだけれど、それならマジョリティ的な人物像やモチーフを扱っている作品についても、作者がマイノリティであったり、作品が全く事実に基づいていなかったりする可能性も常に考えなくてはおかしい。(p.210)

 

 フェミニズムやポリティカル・コレクトネスの考え方は、今まで犠牲にしてきたそうした人々をもう犠牲にするべきではないというものである。目指されているのは現代性ではなく、普遍性であり、流行ではなく倫理である。今までもずっとそうであるべきだったことが、ようやく実現に近づいているというだけのこと。「正しいこと」が変わったのではなく、今まではずっと、正しくなくても構わないとされてきたのだ。(p.274)

 

 「感情」と「論理」はともすれば対立関係に置かれがちだが、そのふたつは全く位相が違っていて、それゆえ何の齟齬もなく両立しうるとわたしは思う。わたしは感情を殺すことなく、むしろ研ぎ澄ませて外界と相対し、心が知らせたことを論理的に整理し、分析して、他者と共有可能なかたちにしようとしてきた。わたしはずっと怒っていて、同時に、その怒りを開かれた場に置こうとしていた。そうなのだと思う。(p.357)

 

▷List

ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』

清家雪子『月に吠えらんねえ』

山階基

「春日井建をめぐるセクシュアリティの政治」『本郷短歌第五号』

『女性とジェンダーと短歌』

『短歌・俳句・連句の会でセクハラをしないために』

2024年6月2日(日)その2

江國香織『すみれの花の砂糖づけ』新潮文庫 H14.12

遊びにいってきます

と いって

おもてにでても

どうしていいかわからずに

へいにもたれて

立っていた。

せかいぜんぶをむこうにまわし

ひとりぼっちだった

あの日。

しじみちょうと とかげだけは

すこし

仲間だった。

(「退屈」pp.76-77)

 

病院という

白い四角いとうふみたいな場所で

あなたのいのちがすこしずつ削られていくあいだ

私はおとこの腕の中にいました

 

たとえばあなたの湯飲みはここにあるのに

あなたはどこにもいないのですね

 

むかし

母がうっかり茶碗を割ると

あなたはさびしい顔で私に

かなしんではいけない

と 言いましたね

かたちあるものはいつか壊れるのだからと

かなしめば ママを責めることになるからと

あなたの唐突な

――そして永遠の――

不在を

かなしめば それはあなたを責めることになるのでしょうか

 

あの日

病院のベッドで

もう疲れたよ

と言ったあなたに

ほんとうは

じゃあもう死んでもいいよ

と

言ってあげたかった

言えなかったけど。

そのすこしまえ

煙草をすいたいと言ったあなたにも

ほんとうは

じゃあもうすっちゃいなよ

と

言ってあげたかった

きっともうじき死んじゃうんだから

と。

言えなかったけど。

 

ごめんね。

 

さよなら、

私も じきにいきます。

いまじゃないけど。

(「父に」pp.82-85)

 

時間は敵だ

ときが経てば傷はいやされる

せっかくつけてもらった

傷なのに

(「時間」p.148)

2024年6月2日(日)その1

ダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』山崎佳代子 創元ライブラリ 2013.9

「この世に正義はないのだ」と、心のなかで少年は言った。「人間にも、猫にも」

 それから、傍らの大きい石を見つけ、それを持ち上げるといきなり落とした。一匹の子猫がゴム人形のようにきゅうと声をたてる。頭は石の下敷きになった。手だけがはみ出すようにのび、引きつった。爪のあいだに桃色の扇が開く。石を持ち上げると、血に汚れた猫の頭と裂けた瞼の下の金緑の瞳が見えた。少年は悲鳴をあげたが、また石を持ち上げた。

 全部、殺してしまうのに一時間かかった。(pp.122-123)

 

「お願い、ローラ、そんな目で私を見ないでちょうだい」と、クニッペルさんは言った。「あの子たち、川に捨てたわ」

 そのとき母は、疑いがほんとうだったことを悟り、悲鳴をあげると川岸へ向かって飛ぶように走っていった。流れに沿って駆けて、駆けた、犬のように、いや、人間のようにむせび泣きながら。そして、浅瀬で、打ち上げられた僕の妹たちを見つけた、隣村の土地で、首に石をくくりつけられ、柳にひっかかった妹たちを。

 母は、黄昏どきにもどってきた、ただ僕のそばで息をひきとるために。(pp.171-172)

 

 正式には、ベルキさんが飼い主だったけれど、僕は、やはり、身も心も少年のものだった。この世のすべての人間のうち、この少年といちばん馬が合い、いちばん心が通じあった。それには、少年の年齢のほか、僕たちに共通する性格がいくつかあったことが、関係している。少年と僕とは多くの点で似ていたと言っても、まちがいではないと信じている、怠惰なところ、自由奔放なところ、献身的なところ、冒険好きなところ。少年にはどこか犬のようなところがあったと言っても、まちがってはいないと思う、少年の嗅覚、匂いに敏感なところ、これについては、僕に誤りはないはずだ。孤独と悲しみが僕たちの人生を結びつけた。少年の父を思う悲しみと僕の肉親を思う悲しみが、類似性にもとづくある種の友情をふたりのあいだに生み出した。(p.177)

 

 この頃少年はどこか悲しそうだ。僕に対してもなんとなく冷たく、よそよそしくなった。僕になにか隠し事をしているのがわかる。でも、じきに、なんのことだかわかった、そして、ほら、昔からの犬の悲しみが僕をおそった。少年は、また旅に出ようとしている。今度は、本気だ。それについては、疑う余地もない。なぜ僕を避けるのかもわかった、別れが辛くないようにというのだ。僕もこの突然の悲しみで病気になってしまった。少年の家の敷居のところで僕はうとうとする、別れも告げずに立ち去ったりしないように。うとうとしながら、自分の人生について考えている。

 僕は感じる、この別れのあとで僕は生きられない、と。(p.179)

2024年5月30日(木)

江國香織『雨はコーラがのめない』新潮文庫 H19.7(再読)

 はじめて雨に会った日のことは、忘れられない。凍えそうに寒い、十二月の、雨の日だった。そのすこし前から、私はまるで幽霊みたいに日々を暮らしていて、その日もまるで幽霊みたいに、雨だというのにデパートの屋上に煙草をすいにのぼった。なにしろ幽霊なので、雨に濡れても平気だった。なにがどうなってもいいのだった。(pp.18-19)

 

 全く勝手でばかげている、と思うのだけれど、自分の都合で雨を預けておきながら、雨のいない家に帰ると愕然とする。雨がいないんだもの。私は自分が雨を捨ててしまったような気がする。(p.60)

 

 この数カ月で、雨はほとんど視力を失ってしまった。左目も白内障になり、病院通いとお薬とで両目とも炎症はおさまったものの、右目は網膜が剥離してしまった。

(略)

 それはとても認められないことだった。承服しかねる、我慢のならない、冗談じゃないことだった、雨が同じように思っているかどうかはわからない。(pp.114-115)

2024年5月26日(日)

シーグリッド・ヌーネス『友だち』村松潔 新潮社(クレスト・ブックス) 2020.1

 世間の無関心にひどく苦しめられた天才として、ウルフはキーツとともにフローベールの名前をあげている。しかし、フローベールは――女流アーティストはみんな淫売だと言った彼は――彼女をどう思っただろう? ふたりともみずから命を絶つ人物を創作していて、ウルフ自身は自殺しているのだが。(p.20)

 

 書くことで深い哀しみが癒されると期待することはできない、とナタリア・ギンズブルグは警告する。

 それなら、どんな哀しみも、それを物語にするかその一部始終を語ることで耐えられるものにできる、と信じているイサク・ディネセンを頼りにしよう。(p.68)

 

 すべてのペットの飼い主がこれを経験する。あなたのペットが病気になり、あきらかに具合が悪いのだが、それが何か、どこが悪いのかわからない。ペットは自分では説明できないからである。

 あなたを神だと信じている犬が、あなたは苦痛を止める力をもっているのに、なぜかそうしてくれないと思っている(自分がなにか気に障ることをしたのだろうか?)――という考えほど耐えがたいものはない。(p.109)

 

友だちがなぜ死ななければならなかったのかとか、夜のなかでさまざまな思いを抱えたまま横たわっているとき、背中全体は大きな温かい体が押しつけられるのを感じると、驚くほどほっとした気持ちになれるのである。(p.145)

 

 書くことが苦しみでなければ、それをする価値はない、とオコナーは言った。

 それなら、ヴァージニア・ウルフに耳を傾けてみよう。感情を言葉にすれば、<苦しみが拭い去られる>と彼女は言っている。ひとつの場面をうまく立ち上げ、そこに登場人物をみごとに配置することにまさる喜びはない、と彼女は言う。(p.162)

 

 家中が犬臭いね、と訪ねてきたある人が言った。なんとかするつもりよ、とわたしは言った。そして、その人を二度と呼ばないと決めることで、その問題にけりをつけた。(p.202)

 

要するに、ひとつの作品が“私小説”であるかないか、どこまでが実体験で、どこからが想像力の産物なのかという、しばしば読者の好奇心をさそう問題と、その作品がどれだけリアルな存在感をもつか、どれだけわたしたちの心を揺さぶる力をそなえているかとはまったく別の問題なのだということなのだろう。(p.251)※訳者あとがき

*LIST

ナタリア・ギンズブルグ『わたしの天職』

アンデルセン『火打ち箱』

『リリア4-Ever』(スウェーデン映画)

J・R・アッカリー『愛犬チューリップと共に』

『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』(ハンガリー映画)

ハリエット・ビーチャー・ストウ - Wikipedia

コクトー『美女と野獣』

『素晴らしき哉、人生!』

リルケ『若き詩人への手紙』

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ

 

*Question

全身性エリテマトーデス - Wikipedia

ギャヴィン・ユーアート

 

 愛くるしい犬の描写を読みたいと思っていたので、この小説の手法には面食らった。小説(フィクション)をいかに書くか、というテーマにはあまり関心がない。