2021年5月10日(月)

 メルカリで購入した詩集の支払い手続きをコンビニで済ませた帰り、蜂に追われる。メルカリで詩集を買った罰かもしれない。メルカリで詩集なんて買わなければ良かった。ああ、メルカリで詩集なんて……。(このフレーズ、気に入った。メルカリで詩集。)

 夕方、リルケ『マルテの手記』を読み終えた。この断片的な追憶集が詩ではなく、手記形式の小説として書かれたのはなぜなのだろう。思ったことはそれくらい。

 夜、高橋睦郎の詩を音読して上機嫌になる。

2021年5月7日(金)その2

 眠い目をこすりつつ信号が青に転ずるのを待っていたら、車体に「独立した定温の世界へ」と書かれたトラックが通り過ぎていった。初めて見た、あお、あお、つめたい、こおり。できることなら気圧と情緒も安定した世界に連れていってほしい。えーんえんと泣きたくなったので、笹井宏之の短歌を無音で唱え、そうしているうちに大学へたどりついた。永遠を解く力はまだ備わらない。

 帰り、つめたい雨。

 夜、川上未映子の詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』を読み終える。表題作と「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」「ちょっきん、なー」「象の目を焼いても焼いても」が好みだった。切実なことばが乱舞していて、それは自由奔放な語りに思えるのだけど、ことばの打ち方・置き方は緻密な彫刻家のよう。

何かが何かについて語るとき離陸してゆく小林の酔っ払いのぐにゃりった覚悟が俄然輝きましましそこいらの自同律とにせもんをさとす、ひゅー、形式と保身と攻撃が大好きな君らのほんとの大好物はなんですか。ざぶざぶ水には濡れんようにしながら水中での出来事をあーだこーだと語る君らの顔の血色の悪さ人込みの多さ、きゅうりでも食べり。君らの座ってる椅子はどこ製なん、誰が何についてどの真剣さで、ま、傍観者の都合主義はつまるところどうでもいいやろ、いいけど、まあまあするめでも食べり。よう噛み。せせらって笑うこと、わたしにはわからんねん、わたしにはそんなふうな安全確保の趣味のよさか悪さはまったきわからんからそんな君らとは知り合わない。

川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」ちくま文庫 2021.4)

 音読してみたくなるのだけど、関西弁の使い手ではないのでうまくいかない。合わせて川上未映子多和田葉子の対談(『六つの惑星』)も再読した。

2021年5月7日(金)その1

 履歴書ではないけれど、紙面に長所と短所、それに特技を記さねばならず、小一時間うんうん唸る。短所ばかりが思い浮かび、希死念慮という毒が身体に廻りかけたので、インターネットを頼ってありふれたことを書く。特技はピアノにした。でも長いブランクがあるので弾けないかもしれない。

 昨日、野村喜和夫『現代詩作マニュアル』を読み終えた。詩論というのは野暮なものなのかもしれないけれど、詩とはなにか、ことばとはなにかを懸命に書いてくれているのでわたしは好き。真剣であればあるほど。

 詩とは言葉による世界の捉え直し、あるいは再構成である。そしてそれは驚きを、エロスをさえ伴う。

野村喜和夫『現代詩作マニュアル』思潮社 2005.1)

 ことばによる世界の捉え直し、再構成、あるいは秘密の共有。いいね。そういう詩こそわたしは読みたいよ。

2021年5月4日(火)

 オーストリアつながりになるが、リルケの『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』を読み終えた。手記も詩集も読みさしなのだけど、リルケを読みたいひとに対して訳者がまず勧めるのはこの本らしく、結果的には良かったのかもしれない。

  あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ眼を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。

リルケ「若き詩人への手紙」高安国世 新潮文庫 S28.1)

 引用しようと思ったらキリがないし、手が疲れたのでこれだけ……。どの文章も気高い光を帯びていて、内へ内へ沈潜すること、孤独を愛することを説いている。この頑迷さ、生真面目さはドイツ語圏文学に共通したものなのだろうか。肌に合う、と感じる。暫くは枕元に置いて繰り返し読もう。訳者後記に書いてあること(女性の徳についての箇所)はいまいち納得しかねるので、他の著書も読みつつ考える。

2021年5月2日(日)

 帰省して本を読んだり眠ったりSNSを徘徊したり、ふだんと変わらないことをしている。決定的に異なるのは実家にはワンコがいるということで、彼を目の前にするとわたしの他愛ない思考は頭の片隅に追いやられ、単なる溺愛者になってしまう。わたしが頻繁に帰省するのは実家が好きだからというわけではなく、ましてや親戚に顔を見せるためでもないのだけど、そういうふうに勘違いするひともいる。ほんとうは彼に会いたいがためだけなのに。

  本はインゲボルク・バッハマン『三十歳』を読んでいる。文学とは祈りである、と得意げに語る人がときどきいて、その口からは醜悪なナルシシズムの臭いが漏れ出ていることが多いように思う。不可抗力的に嗅いでしまうとうんざりする。その安易さは忌避すべき……であるのに、表題作を読んで“祈り”に近い感想を持った。いや、祈りというよりも“励まし”だろうか。たとえば男と女の世界から逸脱すること。たとえば誰にも支配されない新しい言葉を創造すること。そして生き続けること……こんな作家がいたなんて!

 「どうして数少ないいくつかのシステムだけが世のなかを支配するに至ったのか? ぼくたちが、禁止札や標識のない思考を恐れ、自由を恐れて、頑固に習慣にしがみついているからだ。人間は自由が好きではないのだ。いつ自由が湧き起こってきたとしても、人々はそれを拒否するのだ」

(インゲボルク・バッハマン「三十歳」松永美穂 岩波文庫 2016.1)

 

 「偏見――人種に関する偏見、階級に属する偏見、宗教的な偏見、そしてその他の偏見――それらは指導や洞察によって消えるとしても、悪ふざけの形で残るだろう。不正や抑圧の除去、厳格さの緩和、一つの状態の改善を行っても、そこにはかつての辱めが固着している。言葉が残り続けることで、卑劣な所業がいつでもまた可能になってしまうのだ」

(同上)

 

 「新しい言葉がなければ、新しい世界もない」

(同上)

  引用箇所ではないが、結末にかけての数ページにわたる文章……これは書かない方が小説としては綺麗だったろう。それをおそらく承知のうえで書ききった筆者の切実さ、真剣さをわたしは愛する。青土社から出ている全詩集もいつか読むと思う。 

2021年4月25日(日)

 世界史の知識を仕入れる必要性を感じ、すこし勉強している。海外文学をより愉しむためであるし、スーザン・ソンタグの飽くなき知識欲に感化されたのもあるし、他にも理由はある。エルンスト・H・ゴンブリッチ『若い読者のための世界史』……やさしい語り口で良いのだけど、得た知識がページをめくるごとに頭から抜けていく。関心のあることしか覚えられない。仏陀(ゴータマ)、老子ディオゲネスそれぞれの記述でシオランを想起した。そういえば近いうちに『絶望のきわみで』を読みたいのだった。でも読んだら同族嫌悪に陥ってしまいそうな気がしてならない。

2021年4月24日(土)

 煩瑣な課題を始末することに追われ、逃げるようにして眠りこけ、過去の出来事に起因した悪夢を見て目を覚ます。それから縋るように本を読んで朝を迎える。これを繰り返す1週間だった。その本はもう読み終えてしまったので困り果てている。

 スーザン・ソンタグ『私は生まれなおしている』は14歳(1947年)から30歳(1963年)までの日記であり、編者と訳者が書いているように「生きるための闘い」が記されていた。文学や映画、演劇、音楽、哲学に対する貪欲さはもちろんのこと、思考・創作メモ、母に対する葛藤、セクシュアリティの苦悩・解放、結婚生活の終焉、息子に注ぐ愛情、それから恋愛関係における脆さ……泣きながら地下鉄に乗るといった行動は『反解釈』を読んで抱いていた著者へのイメージとは異なるが、でも、良かった。

母のことしか考えられない。とてもきれいだ、肌がすべすべだ、すごく私を愛してくれている。このあいだの晩、震えて泣いていた――別の部屋にいる父さんに聞かれるのを恐れていたけれど、涙を流して嗚咽するたびに大きなしゃっくりのような音がしていた。因習的に、冷たい関係を保つ、いや、おたがいに受け身で関係を続けるなんて、ひとはなんて臆病なのか――なんと腐った、やるせない、悲惨な生活を送っているんだろう。

彼女はずたずただ。これ以上、彼女を傷つけるなんてしたくない、私がいっさい反抗しなければいいのか?

私は、どうすれば自分を強くできる? 残酷になれる?

スーザン・ソンタグ『私は生まれなおしている』木幡和枝 河出書房新社 2010.12)

 

人生は、みじめで凡庸な長い時間にすぎないとすれば――異論を唱えるべきではない、が、必要な社会的責任は取るが、前線からは後退して、何かに身を投じることはせず、どうせ最悪の事態に見舞われるなら、何度かの幸福な瞬間があってもいいのかもしれない、と。人生を「条件づけられたもの」としては受け入れない

(同上)

 

あらゆることは今から始まる――私はもう一度、自分で生まれなおす。

(同上)

 

私にとって真剣さ、本気は徳であり、実存的に、いずれは感情的にも受け入れられる数少ない徳のひとつだ。華やかさは大好きだし、大事なことを棚上げにするのもやぶさかじゃないけれど、そうしたことは、背景に本気という命題があってはじめて意味をもつ。

(同上)

 

やさしくしないこと。やさしさは美徳ではない。相手にとっていいことはない。相手を劣勢なものとして扱うことになる。

(同上) 

 

ひとは(私は)虚栄に屈服するたびに、また「どう見られるか」のために考え、生きるたびに、裏切りを犯す……自己を他者に合わせて仕立てあげることは必要なく、あるとするなら、愛する人々に合わせて仕立てあげるべきだ。それなら、単に「ひとに見られる」ために自分を仕立てるのではなく、与えるための行為になるから。登場すべきときだけに現われでてくる人物は威勢がいい。目的に突き進んでいる、つまり、自分の秘密はちゃんと守ったままだ。私は独りでいることに苦しんできたけれど、自分の秘密を守るために、孤独の苦しみを乗り越えた。で、今日、独りで、無名で生きること以上の栄光はないと確信している。

(同上)

 

優れてありたいとの願いをさしおいてでも、真実を愛すること。

(同上)

 

間断のない欺瞞→罪悪感→不安……どうしてこんなにおかしくなっちゃったのか? このとっちらかった状態からどう抜けだそう? ……何かしなさい 何かしなさい 何かしなさい

(同上)

  スーザン・ソンタグがどう生き延びたのかを知りたかったのだけど、30歳時の日記(最後の引用)を読む限り、生き延び「た」とはいえない……このひとはずっと模索している。わたしもただなんとなく生き延びてしまったひとにはなりたくない……続きの日記(『こころは体につられて 上下』)と他の著作もそう遠くないうちに読む。