2023年9月12日(火)

 働き始めてからの方が、それ以前よりも性別二元論によるしめつけが激しい。たとえば、仕事上で積極的に支援していた患者さんから、ある日唐突に「同性の担当者が良い」という希望をつきつけられる。同性というのは基本的に女性のことを指す(男性が同性からの支援を希望することはめったにない)。過去に男性から暴力を振るわれていたり、なんとなく女性の方が話しやすいなど、理由は多岐にわたる。わたしはそういった理由には納得する。苦しいのは、わたしと関わっていた相手がこれまでわたしを<性別>という分類法でどちらか一方に振り分けていたという事実だ。言いようのない気色悪さ。きもちわるい、きもちわるい、きもちわるい! 男性にも女性にもなりたくない。この文章を書きながら吐き気をこらえている。

2023年9月11日(月)

 連休の最終日。3日間毎朝ふだんと同様の時間に起き、総務課の者に言われたことを思い出しては腹が立ち、気がかりな仕事のことを思い出してはお腹が痛くなっていた。働き始めてからの2年間で身体ごと造りかえられたよう。

伽倻琴散調の旋律が甦える。曲がった左の人差し指に力を入れて絃を押えると、界面調の微妙な音が膝の上から滲み出た。だがまだ押え方が足りないと思いなおす。チニヤニジョ、チュンモリ、チュンジュンモリ――。旋律を追っていた私の目に白い蝶が映った。闇の中に白い蝶が飛んでいる。蝶は確かに暗い断層の中を翻えっていた。私は立ち上がり蝶の方に向かって歩いた。瞬く。すると蝶はすっと闇の中に消え、また小さくその姿を現わした。涙で輪郭がぼやけると蝶はゆらりと大きく舞い上がる。ふっと蝶が見えなくなったかと思うと私は松本に抱きしめられていた。

(李良枝「ナビ・タリョン」『由熙 ナビ・タリョン』講談社文芸文庫 1997.10)

 

 昨夜、私は幻覚を見たあと、もう一度おにいさんの顔を思い浮かべながら目をつむった。すると次第に全身から力が抜けおちていき、あれは奇妙な体験だった。五感がなくなり、何も聞こえず、何も感じない、忘我というのか、そんな状態が続きました。

 果して自分の声だったのかどうかもわからない。

「偽りの希望」

 何かがはじけたように、そんな言葉がかすめさりました。私はどきっとして言葉のあとを追いかけました。ひらめきではなく、心の中にずっとくすぶっていたしこりのようなものが、突然はじけてとび出してきた感じで、とにかくつかまえたかった。尻尾でもいいからしこりの実体を知りたかった。目を開くな、開くと言葉が逃げてしまう。そう思って追いかけていくうちに、言葉はいつの間にかひっくり返って、

「希望の偽り」

 ……私は思わず唾を吞みました。鋭い錐で心臓を突かれたようで堪えられなくなり、目を開くと、自分の手のひら、足指、首を動かして両肩、両腕をこの目で確かめるように見てそして、整理棚の上にあった手鏡を取りました。血の気のない私が私自身を、いえ私自身が私を見つめている。

(李良枝「あにごぜ」『由熙 ナビ・タリョン』講談社文芸文庫 1997.10)

 特に用事もなかったので朝から晩まで本を読んでいた。乾いた文体を好物とするわたしにとって、日本語で書かれ、主に日本を舞台にした小説はたいていが湿度が高く感じられるので距離を置きたくなってしまうのだが、ときどき読みたくなる。アンナ・カヴァンシルヴィア・プラスの暗さには癒しの作用があるが、李良枝のそれは純粋に暗く、癒しなどない。「あにごぜ」の手法とかけっこう好きだったけれど、読み終えてぐったりしている。

2023年9月10日(日)

 シルヴィア・プラスの再読を始めた。『ベル・ジャー』から始まり短篇集に進み、いまは詩集を読んでいるが、このひとの詩は多彩な顔ぶれに訳されているので違いを楽しめる。ただまあ、叶うことなら全詩集の個人訳が刊行されてほしい気もする。

 

あるのはこの白壁 その上に空はおのずと広がる――

果てしないみどり まったく手が届かない。

天使たちは漂い 星も 冷淡

これが私の媒体。

太陽は光を滴らせ この壁に溶けてゆく。

 

今度は灰色の壁 引っ掻かれて血まみれ。

逃れるすべはないの?

背後の階段は螺旋状に井戸へと続く。

この世界には樹も鳥もいない

あるのはただ酸味だけ。

 

この鮮紅色の壁はしなり続ける

赤いこぶしが 開いては閉じる

ふたつ灰色の うすっぺらな袋――

これこそ私のなりたち これと

十字架と降り注ぐピエタの下で引き回される恐怖。

 

黒壁の上では 正体不明の鳥たちが

頭を旋回させ 唸り声をあげる。

やつらに不滅という言葉はない!

冷たい空白が忍びよる

またたく間にやって来る。

シルヴィア・プラス「胸さわぎ」『湖水を渡って』高田宣子・小久江晴子 思潮社 2001.8)

 

 なんとなくアンナ・カヴァン『草地は緑に輝いて』を開いて奥付を見たら2020年に刊行されていた。当時はさほど印象に残らなかったのだけど、いまこそ必要だという予感がする。カヴァンの陰鬱で冷厳としていて、けれどただ書き殴っているのではない文学を。

2023年8月15日(火)

 連休最終日。『違国日記』が完結したので、始まりから終わりまでを通して再読していたら日が暮れていた。1冊読むのに1時間かかる。第1巻の初読が3年前で、当時のわたしは22歳くらいだったけれど、人格形成にかなりの影響を受けていたのだなと思った。というよりは、槙生ちゃんの信念に共鳴するところが数多くあった。これは槙生ちゃんから影響を受けたからなのか、もともとのわたしの性質と偶然一致したのか。よくわからないが、定期的に再読して戦うことの勇気をもらいたい。

2023年8月14日(月)

 お盆ということで、親戚の集まりに参加した。参加するたびに「もう二度と行くか」と決意を新たにするのだけど、今年は祖母が亡くなり初めての盆なので線香をあげに行きたかった。が、やはりもう二度と行きたくない。「好きな人は? 彼女は?」「結婚するの?」という質問をされるのはうんざり。加えて今回は「痩せてかっこよくなったね」と何度も言われ、どういう反応をすれば良いのかわからず苦笑した。酔っ払いの親戚に言われても嬉しくない、とそのときは思ったが、そもそも美醜の話になるのが厭だった。

2023年8月13日(日)

 午前中に美容院へ行って髪を短めに切ってもらった。もうすこし体重を落としたらやや明るめのカラーに染めてみようかな、と思うのだけど、職場として良いかどうかの規則がいまいちわからない。その後は書店と図書館へ行った。日本の詩の全集を借りて読みつくそうという心意気だったのだけど、その第一巻が島崎藤村の詩のみで構成されていたので挫折、というか萎えてしまった。基本的に他の巻は複数名で構成されているのに、なぜ島崎藤村のみなのか……。それに、シリーズを通して女性の詩人の数がすくなかったからね。なにも借りずに帰宅した。安西冬衛北川冬彦北園克衛が一緒になった巻はいつか借りると思う。

2023年8月12日(土)

 いつからこんなことになってしまったのかわからないが、わたしは併読冊数が多い。じぶんの部屋からリビングまでの距離は、トートバッグに常に8~9冊の本を入れて移動している。併読することにより、小説だけでなく詩や短歌、俳句、人文系などの複数ジャンルに毎日触れられるのが良い。と思っていたのだが、集中的に1冊の本を読むわけではないので読了までに長い時間を要するのは、飽きっぽいわたしには向いていなかったようだ。

 お盆休み(5連休)ですこしでも併読冊数を減らそうと思い、初日は笹井宏之『てんとろり』とマリー・ローランサンの関連書を読了した。そしてきょうは朝から日が暮れるまで『吉原幸子Ⅲ』を読んでいた。

その年は

夏も 病んでいた

 

さびしい海辺の 農家の裏庭

葉かげに 病気の猫のようにうずくまる

あんな大きな紫陽花を

見たことはなかった

 

友も 病んでいた

花に驚くことをさえ 拒み

花を美しいと思うことにさえ

自ら 抗って

唇をゆがめて笑うしかない

病気の猫のような女だった

美しいものを恐れるあまり

いちばん望まないことをしか できなかった

 

友は 間もなく

人生から逃げた

 

電気花火の白い光が

農家の裏庭を照らした夜

葉かげに

見知らぬ生きもの フォルマリン漬けの脳標本のように

紫陽花は うずくまっていた

(吉原幸子「紫陽花」『吉原幸子全詩Ⅲ』思潮社 2012.11)

 夕方くらいになると詩を読むのが難しくなった。