2023年8月11日(金)

 そういえばきのう、仕事を早退して内科を受診し血液検査の結果を教えてもらった。じぶんは年齢の割にコレステロール値が高く、生活習慣によるものなのか遺伝によるものなのかを調べるための検査だった。結論としては遺伝要因であるということだった。コレステロール値を抑制するための薬を処方されたので、「これっていつまで飲めばいいんですか?」と訊いてみたら、長生きするためには若いときから薬を飲んで抑制しておいた方が良いということだった。つまり、永遠。そうまでして生きたい世の中かしら。

 

いちばんに消えてなくなりそうだった星のひかりに頬を切られる

ひまわりの亡骸を抱きしめたままいくつもの線路を越えてゆく

かなしみにふれているのにあたたかい わたしもう壊れているのかも

ひきがねをひけば小さな花束が飛びだすような明日をください

耳元であなたがすこし終わるときいっせいに降りだす星の雨

(笹井宏之『てんとろり』書肆侃侃房 2011.5)

 

2023年8月10日(木)

 身体的な具合の悪さによって他院へ転院していた患者さんの迎えに行ってきた。元気そうでなにより。とはいえ、戻ってきた場所も病院であり家ではないのに嬉しそうにしている様子をどう見つめるべきか。長期入院者との対し方がまだわからない。

 

 ヤマシタトモコ『違国日記』の最終巻を読み終えた。わたしが「書く」という行為に意味を求めるとしたらそれは後世に残るという一点ではないか。会ったこともない、生きた時代が違うかもしれない見知らぬ誰かが救われてほしい。傲慢だけど、小学生のときから思い続けていることだ。岸に残る者になり、あなたたちを送り出したい。また一巻から通して読み直してみよう。

2023年8月9日(水)

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

嫌われた理由が今も分からずに泣いている満月の彫刻師

ひまわりの顔がくずれてゆく町で知らないひとにバトンをわたす

右うでに左うでが生えてしまってせっかくだから拍手している

野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る

はにかんでまばゆいばかりの明け方にあなたの首の骨を折りました

(笹井宏之『ひとさらい』書肆侃侃房 2011.1)

 第二歌集『てんとろり』の方がより顕著にあらわれているが、「はにかんで~」のような不意打ちの暴力性にお腹が痛くなる。まあなにが「はにかんで」いるのかわからず、また「あなた」とは誰で(わたし)との関係性も不明なのだけど。怖いよね。

 

 ふとした瞬間に「わたしにとって最も大切なものはわたし自身の感情である」ということを思った。

2023年8月8日(火)

 昨夜に引き続いて朝まで電話番をした。朝は欠勤・遅刻することを伝えるために職員からの電話が入ることが多く、そのうちのひとつに上司からの電話もあった。どんな用事だろうと思い軽快な調子で応対したところ、兄弟が急死したので仕事を暫く休むという内容だった。こういうとき、どういう風に声をかけるのが適切なのかよくわからない。ご愁傷様です? 違う。電話を切ってから、上司の心境を思って涙ぐんだ。このひとに兄弟がいたことさえ知らなかったというのに。ひとがいつか、いつでも死んでしまうということが昔からずっとかなしい。

 

 午前中は数人の患者さんと面接したり、若手の医師と談笑したりして忙しく働いた。当直で疲れたので午後は有休。夕方に歯医者へ行って取れた銀歯をくっつけてもらうよう頼んだが、形が合わずなにも処置されずに帰ってきた。代わりに虫歯が幾つも見つかった。

2023年8月7日(月)

 九日前に指輪を買った。職場で身につけられるように、控えめなものにした。ところが実際に指輪をしながら仕事をしてみると、どこか落ちつかない。ふだんは意識したことのなかった指の存在が大きく感じられるからかもしれない。働き始めて二年目で、なおかつ結婚もしていないのに指輪をしていることに対して他者からどう思われるかが不安なのかもしれない。そういう自意識はとうに捨てたと思っていた。それに、じぶんは生涯結婚するつもりがないので、だからこそ指輪を嵌めていたいのだという当初のもくろみを思い出した。暫くは様子を見る。

 

 当直業務の日だったので、職場で電話番をしながら本を読んで夜を過ごす。この日のために家から持ってきた本はヴァージニア・ウルフ『船出(下)』、笹井宏之『ひとさらい』だった。笹井宏之の「えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい」はじぶんにとって特別な一首で、呪文のように唱えながら大学までの道を歩いたこともあった(2021年5月7日(金)その2 - アサイラムの手引き書 (hatenablog.com))が、選集ではない第一歌集『ひとさらい』を読むのは初めてだった。療養しながらの作歌であったのに、世界に対する視線がなぜこんなにもやさしいのだろう。わたしの世界認識を短歌に移植するとしたら、エネルギー配分が赤黒く傾いてしまうだろう。

 

 深夜、こわい夢を見て中途覚醒する。若い患者が逮捕される夢。どうか正夢になりませんように。

 

2023年8月6日(日)

 マッチングアプリを経由して会ったことのある男と約束をして、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を観てきた。限られた数の前評判から察するに、映像はうつくしいが内容としては混沌としていて、例えるなら日本の現代詩やキューブリックの『2001年宇宙の旅』のようなものだろうかと想定していたから、意外なわかりやすさには驚いた。極端な思考はわたしの可愛らしい癖。ジブリといえば、金曜ロードショーで放送されているものを半端な集中力で何作か観たことがある、という程度の経験しかないのだが、そんなわたしであっても『ハウルの動く城』や『千と千尋の神隠し』などとの類似点を見つけられておもしろかった。年若い少年の意思が無いものとされず、世界の重荷をひとりで背負わされなかったのも良かった。

 鑑賞後は男とマンガ喫茶へ行った。互いをタロットカードで占うという名目で、確かにそれは果たしたのだが、その後明らかに性的な誘いを待っている様子だったのでうんざりした。今年何人かのひとと会ってみたが、ここでようやくじぶん自身のことがわかった。わたしに<他者>は必要ない。<他者>との関わりを尊いとする世間の要請にこれまで従ってきたが、今後は可能な限り拒絶したい。わたしのことをすべて理解してくれて、なおかつ恋愛関係に陥らないパートナーがいつか現れてくれるだろう、というおとぎ話めいた幻想は捨てなければならない。

2022年11月21日(月)その2

 宮地尚子『傷を愛せるか』のちくま文庫版を読み終えた。このエッセイは

 娘がまだとても幼いころ、外出先で階段から転げ落ちたことがあった。少し離れたところにいたわたしは、落ちていく姿をただ見つめていた。ただ黙って、目を凝らしていた。静かに。動くことなく。はたからは冷たい母親だと思われたかもしれないと、あとで思った。母親だとふつう、パニックになって叫んだり、あせって駆け寄ったりしそうだからだ。

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』ちくま文庫 2022.9)

という文章から始まる。なにもできず、たとえ無力であっても、相手を見ること。目撃者になること。それだけで誰かにとっての救いになることもあるのかもしれない。たとえば、誰にも見られずに死んでゆくひとの多いこと。

 精神科医であり、トラウマ研究の第一人者によって書かれたという情報から、読み始める前は、臨床経験に基づいて人間の内面に迫る動的なエッセイなのだと思っていた。実際は、旅や過去の記憶の淵から零れ落ちた要素をすくって思索する静的なエッセイだった。共感する箇所も多く、好ましく思った。

 

 

 では、攻撃にさらされないように、攻撃されても傷つかないように、「鎧」を何重にもまとえばいいのだろうか? また、「鎧」を何重にもまとう方法はほんとうに有効なのだろうか?

(同上)

 けれど、どれだけ「鎧」を重ねて過剰防衛をおこなっても、人間は、生物は、社会はヴァルネラビリティから逃れられはしない。つねに未来は不確実なままであり、心配や不安をなくすのは不可能であり、一〇〇パーセントの安全はありえない。(……)医療文化はそのヴァルネラビリティを受け入れ、慈しみながら、同時にそれと闘いつづける必要がある。弱さを克服するのではなく、弱さを抱えたまま強くある可能性を求めつづける必要がある。

(同上)

 わたしは強くなりたくない子どもだった。学校の教師や部活の先輩から「メンタルを鍛えること」を説かれるたび、強さへの志向からは遠のいていった。おそらく、強くなることは鈍くなることと同義だと考えていたのだ。鈍重になることで何事にも心を動かされなくなるよりも、柔らかさゆえに傷ついたとしても鋭敏でありたかった。その気持ちは今でも変わらない。

 

 

 傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生き続けること。

(同上)

 他者が抱える傷であるならばまだしも、わたしの傷をわたしは愛せないだろう。自己愛というぬかるみに浸かるのは忌避すべきことだからだ。けれど、その<傷>=<弱さ、ヴァルネラビリティ>と互換可能であるのなら? わたしはそれを、見つめることはできる。受け入れ、愛さずとも慈しみ、目を逸らさずに闘うこと。

 傷を愛せないわたしを、あなたを、愛してみたい。

 傷を愛せないあなたを、わたしを、愛してみたい。

(同上)