2023年9月11日(月)

 連休の最終日。3日間毎朝ふだんと同様の時間に起き、総務課の者に言われたことを思い出しては腹が立ち、気がかりな仕事のことを思い出してはお腹が痛くなっていた。働き始めてからの2年間で身体ごと造りかえられたよう。

伽倻琴散調の旋律が甦える。曲がった左の人差し指に力を入れて絃を押えると、界面調の微妙な音が膝の上から滲み出た。だがまだ押え方が足りないと思いなおす。チニヤニジョ、チュンモリ、チュンジュンモリ――。旋律を追っていた私の目に白い蝶が映った。闇の中に白い蝶が飛んでいる。蝶は確かに暗い断層の中を翻えっていた。私は立ち上がり蝶の方に向かって歩いた。瞬く。すると蝶はすっと闇の中に消え、また小さくその姿を現わした。涙で輪郭がぼやけると蝶はゆらりと大きく舞い上がる。ふっと蝶が見えなくなったかと思うと私は松本に抱きしめられていた。

(李良枝「ナビ・タリョン」『由熙 ナビ・タリョン』講談社文芸文庫 1997.10)

 

 昨夜、私は幻覚を見たあと、もう一度おにいさんの顔を思い浮かべながら目をつむった。すると次第に全身から力が抜けおちていき、あれは奇妙な体験だった。五感がなくなり、何も聞こえず、何も感じない、忘我というのか、そんな状態が続きました。

 果して自分の声だったのかどうかもわからない。

「偽りの希望」

 何かがはじけたように、そんな言葉がかすめさりました。私はどきっとして言葉のあとを追いかけました。ひらめきではなく、心の中にずっとくすぶっていたしこりのようなものが、突然はじけてとび出してきた感じで、とにかくつかまえたかった。尻尾でもいいからしこりの実体を知りたかった。目を開くな、開くと言葉が逃げてしまう。そう思って追いかけていくうちに、言葉はいつの間にかひっくり返って、

「希望の偽り」

 ……私は思わず唾を吞みました。鋭い錐で心臓を突かれたようで堪えられなくなり、目を開くと、自分の手のひら、足指、首を動かして両肩、両腕をこの目で確かめるように見てそして、整理棚の上にあった手鏡を取りました。血の気のない私が私自身を、いえ私自身が私を見つめている。

(李良枝「あにごぜ」『由熙 ナビ・タリョン』講談社文芸文庫 1997.10)

 特に用事もなかったので朝から晩まで本を読んでいた。乾いた文体を好物とするわたしにとって、日本語で書かれ、主に日本を舞台にした小説はたいていが湿度が高く感じられるので距離を置きたくなってしまうのだが、ときどき読みたくなる。アンナ・カヴァンシルヴィア・プラスの暗さには癒しの作用があるが、李良枝のそれは純粋に暗く、癒しなどない。「あにごぜ」の手法とかけっこう好きだったけれど、読み終えてぐったりしている。