多和田葉子「海に落とした名前」『ヒナギクのお茶の場合│海に落とした名前』講談社文芸文庫 2020.8
わたしは稚内からコルサコフへ移動したのではない。稚内でひとつのわたしが消え、サハリンにもうひとつ新しいわたしが現れたのだ。第一のわたしは、札幌にいる家族に、オルガというロシア人の友達の結婚式に出るためにニューヨークに行くと嘘をついて出かけた。第二のわたしは、誰も知る人のいないサハリンに来てしまっている。
(「U.S.+S.R. 極東欧のサウナ」)
読者のクィア性を焚きつけること。それこそが多和田葉子作品がクィア文学である所以なのである。
(解説 木村朗子)
素晴らしい短歌に出会ったとき、胸にきいんと高い音が響くような気がします。そして忘れません。どこでどんな生き方をしていたとか、男であるとか女であるとか子どもだとか大人だとか年寄りだとか、課長だとか部長だとか、そんなもろもろのレッテルをつきぬけて、心に響く瞬間があります。短歌には、心がなくては。どんなに技術を重ねても、心がなくては。しかし、心を描くには、実は技術がいるのです。