2024年4月29日(月)

多和田葉子ヒナギクのお茶の場合」『ヒナギクのお茶の場合│海に落とした名前』講談社文芸文庫 2020.8

 

「だから、どうだって言うんです。わたしたちはね、子供はみんなの財産なんていう変な考え方はしないんですよ。」わたしはまるで赤ん坊の母親とわたしが当然同じグループに属しているのだ、とでもいうように、「わたしたち」という言葉を強調して言った。「子供がみんなの財産だと思うのは、子供が大きくなったら工場とか軍隊とかに送り込んで、みんなの役に立てようと企んでいるからでしょう。わたしたちのところにはね、そういう軍隊とか工場とかは全然ないですからね。」

(「枕木」『ヒナギクのお茶の場合』)

 

 ティーバッグは湿っている間は半透明で中が見える。「人間の身体もそうだったら大変ね。お風呂に入ったとたんに肌が透き通ってしまって、内臓が見えてしまったら大変だと思わない?」とわたしが言うと、ハンナは、「ばかなこと言わないでね。」と答えた。

(「ヒナギクのお茶の場合」『ヒナギクのお茶の場合』」

 

ハンナが「照明の勉強がしたいんだけれど。」と言うと、トーマスは眉をしかめて、「女には無理だよ、重いコードを一日中引きずって歩く仕事だからね。」と答えた。ハンナに睨まれて、あわてて、「ごめんよ。」と付け加えた。その日から、ハンナは毎日暇さえあればニシキヘビのようなコードを舞台の右端から左端へ、左端からまた右端へと、ひきずって歩いた。頼まれもしないのに、意味もなく、ひきずって歩いた。

(同上)

 

聞かれることに、しゃべることに、疲れてしまった。疲れ過ぎると、悲しくなくても涙が流れてくる。泣かないで、ボートに乗せてあげるから。

(同上)