2023年9月19日(火)

 当直明けなので午後は有休にして帰宅。昼食をとり、うつらうつら母の話を聞いていたらうっかりうとうと眠りこけてしまい、気がついたら16時を過ぎていた。こんなことだったら休まず仕事したのに! ただまあ、信頼している上司が家庭内感染してしまい暫くはお休みなので労働の意欲はほとんど削がれてしまっているのだけど。現職のモチベーション、さいしょは興味関心だけだったと思うけれど、いつの間に変化したのだろうか。

 

 じぶんに甘く、年上の他人には厳しい。みたいな傾向があるので気をつけたい。年上にはじぶんよりも優秀であってほしい、豊かな知識を有していてほしい、余裕を持っていてほしい。そんなふうに思うことは高慢かもしれない。

 

 北村匡平『24フレームの映画学』を読み始めた。

 二〇世紀の映像の研究や批評は、主として映画館で不可逆的にフィルムを観ることが条件づけられていた。蓮實の批評は基本的にこうした環境における「記憶と動体視力」に基づくパラダイムであった。すなわち映画は複製技術ではあるものの、実際は映画館で観る「一回性」の側面を強く持っていたのである。したがって論者に差はあれ、自分の観たいように記憶し、都合よく解釈することもあり、細部の記憶違いは特段珍しいものではなかった。別の言い方をすれば、蓮實の批評は圧倒的な映画史的記憶力から可能になっていたのである。だが、ビデオデッキやDVDレコーダーの普及とともにビデオテープやDVDで視聴し、何度も繰り返し観たり、巻き戻して確認したりすることが当たり前になると、映像分析の手法も最高を促されることになる。そしてメディア環境のデジタル化は、映画の見方の客観化を一挙に推し進めた。批評家の強引な解釈や大雑把な分析も容易く検証可能になったのだ。

 そういう意味で、現代のデジタル技術時代/アーカイヴ時代における映像批評は、「記録と高解像度の解析力」に基づく新たな批評実践を必要とするパラダイムだといえるだろう。表現を変えれば、それは映画の解剖学だ。ところが長らく映画研究/批評は、できるにもかかわらず映画を計測すること、徹底して細部を見定めることを怠ってきた。だからこそ、本書では分析の精度/解像度をかなりあげ、必要な箇所にはデジタル技術も使用して肉眼では確認しがたいフレーム単位の分析を施した。

(北村匡平『24フレームの映画学――映像表現を解体する――』晃洋書房 2021.5)

 大量に引用してしまった。こういう、ある意味技術書のような本はとても好き。まだ最後まで読んでいないが、映画やアニメーションでの着目ポイントが変容し、観るときにショットや俳優の視線、音響を意識するようになった。そうするとストーリーが頭に入ってこなくなる。練習あるのみか。