2021年9月29日(水)

 心臓の鼓動にあわせて涙はあふれ、それは生きている糸のようにこめかみを這って後頭部にまわりこみ、首にからみついてウィステリアの息の根を止めようとする。彼女は暗闇の中で嗚咽する。そして思う。あんな赤ん坊はどこにもいない。この世界のどこを探したって、あの赤ん坊は存在しない。わたしたちの赤ん坊はどこにもいない。存在することは絶対にない。そんなことは絶対に起こらない。もし、万が一にもわたしと彼女が愛しあうことが――それだって決して起こることはないけれど、けれどもしそんなことが起きたとしても、しかしわたしたちの娘が生まれてくることは決してない。

川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮文庫 R3.5)

 下書きに仕舞っておいた日記(2021年8月16日(月))をふたたび公開した。未だに幸福と不安のバランスを一定に保つことはむずかしく、どちらかが極端に重くなる。身も心も預けてはならないのだと思う。だれにも、なににも。クローゼットの内側から厳重な鍵をかけ、指折り数えて「時間」が過ぎていくのを待つ。そうすれば「記憶」という集合体から脱出できるだろうか。暗がりで眠り、夢みたいな夢を視る。夢というのは夢、理想。古びた価値観によって構築された建物が崩れる、砂埃の輪郭を光がなぞる、光が舞う、光が貫く、鍵をあける、息を吹き返す、頬が空色に染まる。