2021年4月24日(土)

 煩瑣な課題を始末することに追われ、逃げるようにして眠りこけ、過去の出来事に起因した悪夢を見て目を覚ます。それから縋るように本を読んで朝を迎える。これを繰り返す1週間だった。その本はもう読み終えてしまったので困り果てている。

 スーザン・ソンタグ『私は生まれなおしている』は14歳(1947年)から30歳(1963年)までの日記であり、編者と訳者が書いているように「生きるための闘い」が記されていた。文学や映画、演劇、音楽、哲学に対する貪欲さはもちろんのこと、思考・創作メモ、母に対する葛藤、セクシュアリティの苦悩・解放、結婚生活の終焉、息子に注ぐ愛情、それから恋愛関係における脆さ……泣きながら地下鉄に乗るといった行動は『反解釈』を読んで抱いていた著者へのイメージとは異なるが、でも、良かった。

母のことしか考えられない。とてもきれいだ、肌がすべすべだ、すごく私を愛してくれている。このあいだの晩、震えて泣いていた――別の部屋にいる父さんに聞かれるのを恐れていたけれど、涙を流して嗚咽するたびに大きなしゃっくりのような音がしていた。因習的に、冷たい関係を保つ、いや、おたがいに受け身で関係を続けるなんて、ひとはなんて臆病なのか――なんと腐った、やるせない、悲惨な生活を送っているんだろう。

彼女はずたずただ。これ以上、彼女を傷つけるなんてしたくない、私がいっさい反抗しなければいいのか?

私は、どうすれば自分を強くできる? 残酷になれる?

スーザン・ソンタグ『私は生まれなおしている』木幡和枝 河出書房新社 2010.12)

 

人生は、みじめで凡庸な長い時間にすぎないとすれば――異論を唱えるべきではない、が、必要な社会的責任は取るが、前線からは後退して、何かに身を投じることはせず、どうせ最悪の事態に見舞われるなら、何度かの幸福な瞬間があってもいいのかもしれない、と。人生を「条件づけられたもの」としては受け入れない

(同上)

 

あらゆることは今から始まる――私はもう一度、自分で生まれなおす。

(同上)

 

私にとって真剣さ、本気は徳であり、実存的に、いずれは感情的にも受け入れられる数少ない徳のひとつだ。華やかさは大好きだし、大事なことを棚上げにするのもやぶさかじゃないけれど、そうしたことは、背景に本気という命題があってはじめて意味をもつ。

(同上)

 

やさしくしないこと。やさしさは美徳ではない。相手にとっていいことはない。相手を劣勢なものとして扱うことになる。

(同上) 

 

ひとは(私は)虚栄に屈服するたびに、また「どう見られるか」のために考え、生きるたびに、裏切りを犯す……自己を他者に合わせて仕立てあげることは必要なく、あるとするなら、愛する人々に合わせて仕立てあげるべきだ。それなら、単に「ひとに見られる」ために自分を仕立てるのではなく、与えるための行為になるから。登場すべきときだけに現われでてくる人物は威勢がいい。目的に突き進んでいる、つまり、自分の秘密はちゃんと守ったままだ。私は独りでいることに苦しんできたけれど、自分の秘密を守るために、孤独の苦しみを乗り越えた。で、今日、独りで、無名で生きること以上の栄光はないと確信している。

(同上)

 

優れてありたいとの願いをさしおいてでも、真実を愛すること。

(同上)

 

間断のない欺瞞→罪悪感→不安……どうしてこんなにおかしくなっちゃったのか? このとっちらかった状態からどう抜けだそう? ……何かしなさい 何かしなさい 何かしなさい

(同上)

  スーザン・ソンタグがどう生き延びたのかを知りたかったのだけど、30歳時の日記(最後の引用)を読む限り、生き延び「た」とはいえない……このひとはずっと模索している。わたしもただなんとなく生き延びてしまったひとにはなりたくない……続きの日記(『こころは体につられて 上下』)と他の著作もそう遠くないうちに読む。