2023年10月12日(木)

 なにが辛いのかわからない。心が塞ぐ。身体が重くなる。思い当たることは幾つかある。愛犬の具合が夏頃から安定しないこと(想像したくもないがこの子がいなくなったらわたしの人生に価値はなくなる)、良好な関係性を築けていると思っていた患者に不信感を持たれていたこと(心の内なんてほんとうにわからないものだね)、名刺を以前と同じように作ってもらいたかったのに許可なく改変されていたこと(フルネームにではなく下の名前にだけフリガナがふられていた)。あらゆることに傷つく心身を持て余している。鈍くなって繊細さを失うくらいだったら傷つく方が良い、と7、8年前に思ってタフさよりも回復力を志向し続けてきたけれど、それも限界なのかしら。

2023年10月4日(水)

 湖の底に沈んでいるような日が続いていたが、この2日間くらいはそうでもない。呼吸を無意識のうちにできている。なぜ? 気分の落差の要因について、改めて問わなければならない。あしたになったらまた沈んでいるかもしれない。原因と対策。

 朝、通勤途中にある一軒家の敷地内にケンタッキーの袋が供えられていた。すっかり秋めいた気候で、長袖を着れることが嬉しい。代償としての頭痛があったものの、雨が降っていたのもよかった。コンタクトレンズなので顔に水滴が降りかかっても平気だ。心はいつでも傘をさして長靴をはいて蛙とゲコゲコ歌っている。

 昼、オンライン書店で本を三冊買った。買い物をすることはわたしが取れるストレス対処行動のうちのひとつ。コロッケパンとオイコス(ストロベリー味)を食べた。きのうの昼もオイコス(洋ナシ味)を食べたのに、運動することなく眠りに落ちた。果たされなかったタンパク質の目的。今なら飛べる気がする! 仕事中に素で2回笑った。

 夜、エミリ・ディキンスンの詩集が2冊届いていた。わたしにとってシルヴィア・プラスが文学的な母であるならば、エミリは大おばであるなと考えたところで愉快になり好きな作家たちをわたしを中心とした関係性で捉える試みに執心したが、関係性として連想されるのが「母」であるとか「大おば」であるとか、血縁関係だったことに嫌気がさし、飽き、倦み、海を見に行きたい。

 おやすみ、おやすみ。涙が。

2023年10月2日(月)

 世間と隔絶し、黙々と趣味に没頭したり創作に励むような暮らしに憧れる。そういえば、小学生のときの口癖は「隠居したい」だった。いやな子どもだ。じっさい、この暮らしを実現するにはどうすれば良いのだろう? 収入よりも、寂しいという感情を処理することが大変な気がしている。エミリ・ディキンスンは白い衣服に身を包みながら、どのように孤独を飲み込んで生活していたのだろう。評伝(のような本)が届いたので、そのうち読んでみる。

 

 カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』を読み始めた。とくべつな本、とくべつな作家になるのではないかという予感がする。

2023年10月1日(日)

 米林宏昌監督の『メアリと魔女の花』を観たのだけど、メアリの成長譚としても、異性間の恋愛または友情の物語としても、変身魔法の実験を世代を超えて防ぐ物語としても奥行きが足りなかった。メアリではなく、シャーロット大おばさん(=赤毛の魔女)の過去をふくらませて描く方がおもしろそうだ。

 それに比べて、きのう観た細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』はよかった。上映が2012年で、わたしが以前観たのはTV放送でだから、おそらく10年近く経過しての再鑑賞。台詞がなく映像と音楽だけで物語が進行するシークエンスの美しさ! 終盤、雪と草平の会話はカムアウトのやり取りとして読むことも可能。

魂は自身の社会を選ぶと

後は堅く扉をしめる

もはやその神聖な仲間に

だれも押し加わってはならない

 

魂の貧しい門前に

立派な馬車が止まってももう心を惹かれることはない

靴ふきの上にたとえ皇帝がひざまずいても

魂はもう心を動かすことはない

 

私は知っている

魂が宏大な国からただ一人を選びとるのを――

それから後は 石のように

注意の栓をぴたりと閉ざしてしまうのを――

(エミリ・ディキンスン『自然と愛と孤独と』中島完 国文社 1964.8)

 ちょうど読んでいた詩集より、いっとう好きな詩を。雨くんを想起。

2023年9月26日(火)

 出勤中の車内にて大きな希死念慮に襲われる。無になりたい。力が抜ける。さりとて、仕事を辞めればこの気持ちが消えてくれるわけでもない。仕事だけでなく、あらゆることが死への導火線とつながっている。逃げ道はないのだ。大学を出てから今の職場しか知らないが、わたしに合っている仕事だと思う。給与が低いことを除けば、とくに不満もない。働き始めた当初は他人の気分に影響を受けて不安定だったが、切り離して考えられるようになった。

 

 このところ、いつにも増して頭が痛い日が続いている。ふつうの頭痛ならまだ良いが、偏頭痛は五感が過敏になったり、読書するにも文字の焦点が合わなくなったりするのでじっと耐えるしかない。この苦痛はいつか詩にしてやる。

 

 英語の勉強を6か月ぶりに再開した。シルヴィア・プラスの日記や母あての書簡集を読みたい。それに、アン・セクストンという、プラスとともにロバート・ローウェルの創作セミナーに参加し、自殺について語り合った詩人の作品も読みたい。このひとも自殺してしまった。

2023年9月19日(火)

 当直明けなので午後は有休にして帰宅。昼食をとり、うつらうつら母の話を聞いていたらうっかりうとうと眠りこけてしまい、気がついたら16時を過ぎていた。こんなことだったら休まず仕事したのに! ただまあ、信頼している上司が家庭内感染してしまい暫くはお休みなので労働の意欲はほとんど削がれてしまっているのだけど。現職のモチベーション、さいしょは興味関心だけだったと思うけれど、いつの間に変化したのだろうか。

 

 じぶんに甘く、年上の他人には厳しい。みたいな傾向があるので気をつけたい。年上にはじぶんよりも優秀であってほしい、豊かな知識を有していてほしい、余裕を持っていてほしい。そんなふうに思うことは高慢かもしれない。

 

 北村匡平『24フレームの映画学』を読み始めた。

 二〇世紀の映像の研究や批評は、主として映画館で不可逆的にフィルムを観ることが条件づけられていた。蓮實の批評は基本的にこうした環境における「記憶と動体視力」に基づくパラダイムであった。すなわち映画は複製技術ではあるものの、実際は映画館で観る「一回性」の側面を強く持っていたのである。したがって論者に差はあれ、自分の観たいように記憶し、都合よく解釈することもあり、細部の記憶違いは特段珍しいものではなかった。別の言い方をすれば、蓮實の批評は圧倒的な映画史的記憶力から可能になっていたのである。だが、ビデオデッキやDVDレコーダーの普及とともにビデオテープやDVDで視聴し、何度も繰り返し観たり、巻き戻して確認したりすることが当たり前になると、映像分析の手法も最高を促されることになる。そしてメディア環境のデジタル化は、映画の見方の客観化を一挙に推し進めた。批評家の強引な解釈や大雑把な分析も容易く検証可能になったのだ。

 そういう意味で、現代のデジタル技術時代/アーカイヴ時代における映像批評は、「記録と高解像度の解析力」に基づく新たな批評実践を必要とするパラダイムだといえるだろう。表現を変えれば、それは映画の解剖学だ。ところが長らく映画研究/批評は、できるにもかかわらず映画を計測すること、徹底して細部を見定めることを怠ってきた。だからこそ、本書では分析の精度/解像度をかなりあげ、必要な箇所にはデジタル技術も使用して肉眼では確認しがたいフレーム単位の分析を施した。

(北村匡平『24フレームの映画学――映像表現を解体する――』晃洋書房 2021.5)

 大量に引用してしまった。こういう、ある意味技術書のような本はとても好き。まだ最後まで読んでいないが、映画やアニメーションでの着目ポイントが変容し、観るときにショットや俳優の視線、音響を意識するようになった。そうするとストーリーが頭に入ってこなくなる。練習あるのみか。

2023年9月14日(木)

 現時点におけるわたしの処理能力を超えた仕事量の日が続いている。そういうときは帰宅後に散文を読もうとしてもあっさりと眠ってしまう。詩を読みたいな、それに短歌も。シルヴィア・プラスをひととおり読んだら、あらためてエミリー・ディキンソンに戻ってみよう。

 しかし、由熙はやはり遠かったのだ。

 私と何を話し、私に何をぶつけても、自分が吐いた言葉と表情の苦い余韻を、由熙はだからこそ韓国語をもっと自分のものにし、もっとこの国に近づこうとすることで乗り越えようとしたのではなく、それとは反対に、日本語の方に戻ろうとしていた。日本語を書くことで自分を晒し、自分を安心させ、慰めもし、そして何よりも、自分の思いや昂ぶりを日本語で考えようとしていたのだった。

(李良枝「由熙」『由熙 ナビ・タリョン』講談社文芸文庫 1997.9)

 pp.359-360の文章も引用したかったのだけど、ハングルが使われていてうまくできなかったので諦めた。あいまいな記憶になるが、李良枝は多和田葉子も言及していたような気がするので今後もすこしずつ読んでいくことになりそうだ。